一人暮らしの父への思い

地方で一人暮らしをしている高齢の父への思いとは

2020年4月29日
から admin
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母との別れ

昭和59年には、妹が高校を卒業し就職して、4人の子供たちも全て職に就いて父と母も一安心であったろうと思うし、盆、暮れに我が家に帰省すると、子供たちの成長にほっとした様子が伺えた。

昭和59年からは、夫婦二人で農業をしながら生活をし、好きな旅行に定期的に出かけて人生を楽しんでいた様子であった。母は、家事仕事とやっぱり忙しい日々を暮らしていた。

そんな母が、今まで大きな病気をしていない健康な状態であったが、ふと健康について考えたのか、町主催の健康診断を受診した。その結果、肺がんの疑いありの診断結果が送付されてきてので、早速地元の病院で精密検査を受診した。

私たち子供らも”がんではない””間違いであって欲しい”と願っていたが、診断結果はステージ3の肺がんであった。その後肺がんの摘出手術後、自宅療養を行った。手術後は、父のあたたかい看病もあって順調に回復した。

しかし、手術後3年目に体調不良を訴え緊急入院し、精密検査を行うとがんの再発がわかった。父、私たち子供らまさかと思ったが、それが現実であった。

医師からは、完治は難しいと言われ目の前が真っ暗になった。その後入院を継続し看病することになった。父は、昼間は農業で働いて、夜は毎日病院に通い母の看病に努めた。

私たち子供たちも、休日ごとに病院に通い母の看病に努めた。入院して3ヶ月後、平成13年3月に母が息を引き取った。

父は、立派なお葬式をあげてやりたいと言い、家族みんなでそのように進めることにした。立派なお葬式と言っても、祭壇が上等であったり、生花が上等であったりと見た目で高級感がうかがえるお葬式であったように思う。

私たちの地域では、この頃までは葬祭場を利用した通夜・葬儀は行われておらず、もっぱら自宅で通夜・葬儀を執り行う風習であった。そのため家族が亡くなると家の片づけや祭壇の依頼などとやることが多く、故人とゆっくりお別れができる様な状況ではなかったように思う。

今のお葬式は、家族葬など家族や親戚だけのお葬式が増えているが、これはこれでいい方法だと思う。

母が亡くなり、父一人となり、今までやったことのない家事、特に炊事には苦労したとよく話してくれる。そんな一人暮らしも29年を迎えようとしている。父も永遠に生きることはなく、今後のことを日々考えるこの頃である。

2019年10月14日
から admin
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父の略歴

父は今年で95歳となる。大正14年まれで戦前・戦中・戦後と荒れた日本の中で生きぬいてきた一人である。戦中では、日本兵の一員として出兵し終戦を韓国で向かえた。

命からがら日本へ帰国し、家業の農業を営んだ。作物は水稲・養蚕が主で林業の炭焼き業も併せて行い生計を立てていた。帰国後まもなく母と結婚し、私たち4人の兄弟を育て上げた。

農業については、戦後の急激な人口増加に伴う食糧難等もあり収入はまあまああったと思われる。長男を学費が多くかかる私立大学まで就学させたことからある程度の収入はあったと思われる。

しかし、昭和30年~40年代当時の農業は今と違い機械化が進んでおらず父・母は毎日朝早くから夜遅くまで働く毎日であった。父は、夜食事を摂るとすぐ床に就く日課であった。子供ながらに父が疲れている様子を感じていた。

その後、農業の機械化も進み、我が家も少しづつではあるが農業機械の購入も進んだ。そして農作業も少しづつ楽になって、規模拡大が可能となり、我が家でも水稲の作付面積を拡大していった。80aの水稲栽培を150aに拡大した。

結局、農業機械の導入により農作業が楽になるかと思ったのもしばらくで、規模拡大により毎日毎日重労働の日々が続いた。ただ、そんな父・母の働きがあって、私たち4人の子供は今があると感謝の思いでいっぱいである。

特に長男は当時後継ぎとして農業高校に入学したものの、長男の希望で私立の大学に入学し警察官となった。当然父の時代で農業も終わりとなった。父の農業継承に対する思いが途絶えてしまい申し訳ない気持ちにもなる。

今は、農地も近隣の農家に貸付して管理してもらっている。一人暮らしの父もヘルパーやディサービスなどを利用して何とか生活している状況である。